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件名: 鹿島大神苗裔神卅八社 [志太郡一座] ( No.[34]46 )
日時: 2015/09/01 10:58:39
名前:
御津垣
龍谷史壇76 『古代辺境村落に関する一考察 --大崎平野における式内社と鹿島・香取神社苗裔社の分布を中心として』(神 英雄)
この考察に以下のような一文が見ることができる。 ---------------------------------------------------- 大崎平野における古墳時代と奈良・平安時代の遺跡は、鳴瀬川、江合川流域の洪積丘陵と 沖積平野の漸移地域に集中する。そして遺跡密集地域は時間経過とともに、 鳴瀬川流域から江合川流域へと移動しており、鳴瀬川は中世以降舟運が盛んであったことから、 入植経路や物資輸送経路として利用されていたと推測しうる。陸奥国の鹿島・香取苗裔神社が、 当時の汀線や河川の沿うて位置しており、「水上交通」や「水」と密接な関連が見られ、 それが洪積台地や丘陵の末端・自然堤防に立地していることを考え併せれば、 貞観八年太政官符記載の、色麻郡三社・志太郡一社・小田郡四社の鹿島苗裔神社は、 鳴瀬川流域の自然堤防・丘陵・台地の末端に位置していたものと考えられる。 そして鳴瀬川流域に分布する現存の鹿島・香取神社のうち、自然堤防・丘陵・台地の末端に 立地し、かつ奈良・平安時代の集落遺跡の周辺ないし中心に位置するのは、 加美郡中新田町四日市場の鹿島神社・同志麻町四竈の伊達(香取)神社・ 志太郡三本木町桑折の鹿島神社の三社である。 したがって、志麻郡三社のうち二社は、加美郡中新田町四日市場の鹿島神社・ 同志麻町四竈の伊達(香取)神社であり、 志太郡一社は、三本木町桑折の鹿島神社であると推測する。 ----------------------------------------------------
本論文を参考に三本木地区を調査してみたが 該当する由緒をもつ鹿島神社は見つけることができなかった。 唯一、「三本木桑折」の小字「鹿島下」を確認できた。 地名とくに小字にはその地区の歴史を表すことが多いこともあり この辺りに鹿島神社の存在は推測できた。
後日、知人に『三本木の歴史』なる書物を紹介され 同三本木の八坂神社に、明治四十二年合祀されたことを知ることとなる。
さて、当地を訪れたのは夏も暑い盛りであった。 最初に八坂神社で由緒を確認する為、宮司宅を訪問する。 しかしながら、そのような歴史は分からないとのことであった。
次に、目星を付けていた「鹿島下」に向かう。 該当の場所は伐採が行われている状態であった。 近所の方に伺うと、確かに昔「鹿島神社」はあったが、今はなにもないと言う。 詳しくは山の所有者に確認されたほうがいいということになりそちらに伺うこととした。
所有者の方は、八坂神社の総代でもあられたので、八坂神社由緒書を頂き、 鹿島神社が確かに合祀されていることを確認させてもらった。 また、二代前は神社があった山上にお住まいであったとのことであった。
鎮座跡地にも上らせて頂いたが、かつて人がいたという形跡が 水道関係の設備からも窺うことができた。 神社としての形跡は、「白山神社」の石碑が残されていたことだけであった。 おそらく、合祀の際に忘れられ人知れず残されていたものであろう。 跡地からは東北新幹線の高架がよく見えた。 湿地帯を舟で遡ってくるとこの山はよい目印となるのではなかろうか。
余談であるが八坂神社には多くの鹿島神社が合祀されている。 いづれも同じ明治四十二年合祀であり、村社であったようだ。 ・斉田邑小原(現:三本木斉田字小原) ・坂本邑跡水(現:三本木坂本字鹿島)「跡不見壇遺跡」付近か ・南谷地邑岡町 ・蒜袋邑南屋敷(現:三本木蒜袋字南屋敷) ・高柳邑東壇(現:三本木高柳字東壇) ・伊賀邑松本澤(現:三本木伊賀字鹿島) ・桑折邑鹿島(現:三本木桑折字鹿島下)
写真 1枚目:Google Flood Maps 現在 大崎市にて災害があり不適切として一旦削除致します。 30m海面を上げております。 実際にここまで海が入り込んでいた訳ではなく 過去河川の氾濫により湿地帯と化していた時代を分かりやすくする為に 参考に乗せております。 赤丸部分は、鹿島神社跡となります。
2枚目:鹿島神社跡地
3枚目:八坂神社 鹿島神社合祀先となります。
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